衆議院議員 堀井学です。
先日の出来事である。東京から北海道に戻る際、予約していた飛行機が遅延する連絡が入ったため、羽田空港到着してから、少し早い便に変更をしました。
東京セミナーの応援に来ていた娘と一緒に、同じ便で帰るのだが、約1時間近く遅れると知り、娘は残念がっていた。家で待つ、二人の愛犬、ティニーとマグに少しでも早く会いたがっていたからです。
よし、一便早めよう!と、チケットを変更すると、その便は実は二便前で、既に、1時間半遅延した便でした。
搭乗口では、遅延のお詫びで、航空会社から飲食代1000円が配られていました。私は、飛行機を早めて通常より早く帰れるのだから受け取る権利はないと受け取らなかった。娘にも、私達はもらえないよと伝え、二人分の2000円は返納されました。
自慢話をしたいのではありません。
これが私の誇れる生き方ということをお伝えしたかったのです。
23歳になる娘には、いつか、私の孫達に「私のお父さんはこんな人だった」と、この人生の一コマを胸を張って語って欲しい。誇れる父親だと。
もし、この2000円を、わたしがラッキーと思い、儲かったねと笑顔で娘に話す父親であったなら、この先、同じような経験をした際、私の子供達もそうなることでしょう。
昨今、もらえるものなら、何でももらおう。得するなら、得しちゃおう。自分さえ良ければ、他人に迷惑をかけても平気な人を多く目にします。
コロナの補助金や給付金も、全国各地で、本来はもらうべき立場にない人までが、受け取っていた例が後を立ちません。
日本人の武士道、大和魂、胸を張って、誇れる生き方は、薄れつつあります。
戦前の教育を悪と評価する方がいますが、私はむしろ、戦前の教育こそ日本人の生き方、道徳を教えていた素晴らしい教育だったと考えています。
私が何故、誇れる生き方を学んだか。
それは、大好きな祖父がそのような人間だったからです。
私の祖父は、戦争を経験した日本兵で、祖国日本を守るため、満州を一日50キロ歩き、仲間を救い、助け、励ましあって、敵と闘い交戦し、生き延びた男でした。
終戦後は、傷ついた体で集団で船に乗り北海道留萌港に涙の帰還を遂げたのです。私は祖父の経験を膝の上で何度も聞かされて育ちました。勇ましく、日本を守るために闘った話が大好きでした。
そんな戦前の教育を受けた祖父から、人間の生き方、強く生きる、正直に生きる、素直に生きる、ことを教えられたのだと考えます。
スケート選手時代にも、私が誇る、自分だけの武勇伝があります。今でもそんな選手であった自分を褒めてあげたい。
私は、500m短距離の選手でした。スタートが命と言ってもいい。僅かな反応の遅れは命とりとなります。
緊張感が高まるスタートの場面、
スターターがピストルを撃つ。
音が鳴り、耳で聞いて体を反応させるのが王道ですが、私が選手時代、ピストルと同時にスタートを切る、山勘を張ってスタートする選手が日本にも、海外にもたくさんいたのです。
私からすると、ずるい考えを持ってスタートする、スターターにバレなければラッキー、ドンピシャで出れれば、スーパーラッキー!という価値観の輩が実際にいたのです。
生き方の美学みたいな話になるが、私が自分を褒められるところは、必ずピストルの音を聞いてからスタートをしたことです。
最もフライングが少ない選手であったことは、競技を終えて20年経っても、誇れる生き方になっています。
しかし、そんな私も一度だけ、ドンピシャでスタートを切ったレースがあります。
それは、ワールドカップ500mオランダ大会です。
私は、罪悪感と同走の選手に申し訳ない気持ちで、300m過ぎでスピードを落とし、相手が私を追い抜いてからゴールしました。無論、私は同走者に謝り、お詫びしました。
祖父の誇り高い生き方、戦前の教育を、少しだけ受けたのが、私という人間の歴史です。
1000円を、私は受け取る立場にない。
20年前の選手時代を思い出し、ちょっと誇らしく思えた今日でした。
堀井学 拝